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公開日:2019.05.21  最終更新日:2020.05.18

答申を読む-3

「今後のデザイン振興政策について」 1979年答申

1970年代は、急激な経済成長とそれがもたらした様々な歪を克服していくことによって、私たちの生活が着実に充実していった時代、少し余裕が生まれ、周囲が見渡せるようになった時代と要約できるでしょう。デザインへの要求と期待も、商品や広告といった産業経済活動だけでなく、私たち自身の生活そのものの充実、都市や社会システムの整備、さらには地球環境の変化への対応へと拡大していきました。
その70年代が終わろうとする1979年(昭和54)年、審議会は「今後のデザイン振興政策について」と題する、ほぼ10年ぶりの答申を行います。「はしがき」の冒頭に、「わが国の国民生活、産業社会は、今、大きく変化しつつある。このことは『デザイン』をめぐる諸情勢が大きく変化しつつあることを意味する」とあるように、時代の進展を踏まえ、デザインを様々な分野領域でさらに活用していく政策を展開すべきと提唱していきます。
それでは、80年代のあり方を展望する答申「今後のデザイン振興政策について」を読んでいきましょう。

1.答申の概要

まず審議会の名称は「輸出検査及びデザイン奨励審議会」となり、答申は、その「デザイン奨励部会」からなされています。一見位置づけが変わったように見受けられますが、これは、1966年に組織変更があり、「貿易局検査デザイン課」が誕生したことによるものです。
答申の構成は、「第一章 『デザイン』の位置づけー『デザイン』の重要性の拡大」、「第二章 デザイン政策の方向と課題」、「第三章 具体的なデザイン振興政策」と続きます。まずデザインを定義し、その効用を述べ、国の政策として取り組む意義と課題を提示、さらに具体的な政策について述べていきます。前回答申である「70年代のデザイン振興政策」を踏襲したスタイルですが、「第三章 具体的なデザイン振興政策」に記載された政策は、他の答申に比べやや総花的であり、「デザイン会館」「デザイン博物館」といった、当時としても実現が難しい課題にも言及しています。ただし答申のなされた1980年前後の動向からみて、「国際交流の強化」に答申の眼目が置かれていることは明らかと思います。
なお審議会デザイン奨励部会の構成は、総じてデザイン寄りの人選となっています。部会長は日本産業デザイン振興会会長でもある長村貞一さん。メンバーには秋岡芳夫さん、榮久庵憲司さん、清家清さん、豊口克平さん、皆川正さんなど、インダストリアルデザインを中心としたデザイン界の重鎮が名を連ねています。また答申を具体的に取りまとめた「デザイン政策検討小委員会」には、青葉益輝さん、木村一男さん、田中央さんなど、政策のあり方について、一家言ある方々が参加されています。

2.「デザイン」への認識と政策の方向性

答申「今後のデザイン振興政策のあり方」も、デザインについての「正しい理解」が必要である、との文言からスタートします。「正しい」定義は、前回答申「70年代のデザイン政策のあり方」をそのまま継承していますが、さらに「『デザイン』は、換言すれば、人間と「もの」の多様なかかわりの中で 人間が『より人間らしく』生活していく視座を確保する意図に基づく創造的活動 であると表現することができる」と述べます。経済の側面だけでなく、人間の生活全般に係るが故に、その重要度は益々増してくると強調します。
「わが国においては、昭和 30 年代に一時『デザイン』の重要性がかなり大きく叫ばれたことがあるが、このときは、わが国産業が輸出振興等を通じ国民生活の基礎を形作ろうとする際のものであり、現下の、そして今後当分続くであろう『デ ザイン』の重要性は国民生活の質そのもの、ひいてはわが国産業のあり方、社会のあり方に直接係るものであり、その重要性は質量ともに格段の高まりがあるというべきであろう 」。「石油危機を契機とするわが国経済社会の基本理念の変化とその中におけるデザインの重要性の増大は、デザイン振興策にそれに対する明確な対応を強く求めていると考える」。
このような認識に立って、答申はデザイン振興政策に取り組むにあたっての4つの枠組みを提示します。この部分は、当時の行政がデザインをどのように位置づけ活用しようとしていたかを知る手がかりでもあるので、箇条書的に整理してみましょう。
①デザイン振興策の役割は、端的にはわが国のデザイン水準を向上させ、豊かな国民生活を実現することにある。
②デザイン振興策の対象は、商品を作る人、それを使う人、これをつなぐ人、すなわち、すべての産業界、すべての消費者、 デザイナーときわめて広範にわたる。
③「デザイン」の本質は、「創造」的活動にあり、デザイン振興策の立案、 実施に際してはこの「創造」に留意することが必要であり、これを尊重する制度あるいは気運の醸成、これを引き出すための環境整備がデザイン振興策の重要な課題といえる。
④デザイン振興策は、「デザイン」を通じて国策的課題の達成に寄与する 側面をもっていることを認識すべき 。
①②については、前回答申「70年代のデザイン振興政策のあり方」でも充分に指摘されていましたが、デザインは産業領域と生活領域の双方に効用があるとの認識が、より深まっているように見受けられます。比喩的にいえば、一粒で二度美味しい的な効果が期待できることが、デザイン振興に取り組む根拠と考えられてきたように思います。
今回の答申では、③「創造性」が改めてクローズアップされます。デザイン行政は、模倣対策としての創造性の涵養からスタートしていきますが、この答申は、そうした対処的な見地を超えて、「豊かな国民生活」をめざした創造性へと期待が成長しています。さらに、④「国策的課題」とデザイン振興を、明確に関連づけて論じていきます。
この部分は、自明の理であると理解されがちなので、少し解説しておきましょう。
通商産業省によりデザイン行政が開始された当時は、輸出振興という重要な国策的課題を遂行するためにデザインを採り上げる、つまり目的と手段の関係は極めて明確でした。しかしその課題は、十年を経ずしてほぼ解消していきます。そのことによって、デザイン振興はやや焦点がぼやけていたのではないでしょうか。「デザインを振興する」のか、「国策的課題にデザインを寄与させる」のか。この2つの命題は、同じように見えて微妙に異なります。デザイナーが集まり論議していくと、ともすれば我田引水的になり、デザインを振興することが国策であるかのような雰囲気になってしまいがちです。しかし、国策的課題に結びつけてデザインの振興を図ること、つまり目的と手段の関係を明らかにしてデザインを活用していくことが、行政の果たすべき役割と思われます。そうした危惧が感じられたから、「国策的課題」が加えられたとも推測できるのですが、答申は、「例えば」としながらも、「デザインの国際交流の推進は、本質的にはそれを通じてわが国のデザイン水準の向上に役立つものであるが、同時に、文化交流の一環として位置づけ得るし、発展途上国に対する経済協力の有効な手法ともなる」と指摘しています。

3.デザイン政策としての国際交流

このような認識のもとに、答申はデザイン振興の課題を整理し、具体的な政策を提言していきます。その内容は消費者啓蒙や産業振興など多岐にわたっていますが、ここではこの答申ならではの新しい視点を挙げておきましよう。
①「公共デザイン」
この時代、行政の対象は「モノのデザイン」のみであるので、いわゆる「パブリックデザイン」とは若干ニュアンスが異なりますが、「官公庁購入物品のデザイン面からの配慮」「官公庁事業へのデザイナーの参画」などが提唱されています。いわば諸官公庁の自分事とデザインを結びつけることで、「デザインの振興をナショナルなポリシーとして確立すること」を目指そうとしています。
②デザイナー対策の強化
デザインの担い手の中心は、当然デザイナーなのですが、日本のデザイン行政は輸出振興から始まったために、その訴求対象は製造業とされていきました。この答申にして、ようやくデザイナーを振興の対象と捉えていきます。
「今後、わが国の経済産業におけるひとつの大きな流れが需要の側の重視にあることを考えると、需要と供給の連結者としてのデザイナーの重要性は一段と拡大するわけであり、今後のデザイン振興策のひとつの重要な課題であると考える」。デザイナーをディマンドサイドとサプライサイドの「連結者」として位置づけるという視点は、当時としては斬新な発想ですが、提示されている具体策は、「デザイナー養成のための教育の充実」などとあるもののやや平板です。1993年(平成5年)答申は、産業構造の転換を見据えた新しいデザイナーの育成を最重要課題としていますが、それと比べると、この答申がなされた時点では、政策とするにはリアリティに乏しかったとみるべきでしょう。
③国際交流の強化
一方、国際交流をデザイン振興政策として取り上げる理由とその具体策については、かなり明確に記述されています。
「わが国経済の規模、無資源国としての立場から考え、国際関係を円滑に維持していくことは、今や、そして今後考えられる限り、国策上の最優先課題ともいうべきものである。その際、重要なことは国際関係の円滑化のための諸措置をいわゆる外圧として受けとめるのではなく、能動的に世界に貢献するという立場から実施することが必要であることを認識することである」。つまりデザインに「能動的貢献」役を担わせようという意図です。この時点でも日本のデザインの質は優れていました。ただしそれが世界的に認識されていたかどうかは疑問です。そこで答申は、日本を「受信地としての位置から発信地としての位置」へと変えていく政策を具体的に提示していきます。

4.国際デザインコンペと(財)国際デザイン交流協会の誕生

まず答申は、「国際デザインコンペ」の開催を提言します。
「わが国のデザイン水準の向上、国際的デザイン水準の向上及びそれに対するわ が国の貢献、国際文化交流の推進等の見地から、わが国において世界的規模での「国際デザインコンペ」を開催することは時宜にもかない、きわめて有効な施策であると考えられる。現時点で、国際デザイン上わが国がひとつの中心地となることを目指すことは国策上大きな意味をもつことになると思われる」。
さらに、こうした国際交流を推進していくためには、組織的対応が求めれます。
「海外デザイン関係者との情報交換、海外デザイン関係者の受入れ等について組織的な取組みが必要である。具体的には、日本産業デザイン振興会に国際デザインセンターを設置し、 デザイナー団体等との連携の下にこの種の業務を円滑に行っていくこととするのが適当であろうと思われる」。
答申では日本産業デザイン振興会内にとありますが、多少の紆余曲折をへて、1981年に(財)国際デザイン交流協会(2009年解散)が大阪に設立されます。この財団は、大阪府大阪市と関西の有力企業によって設立され担われたもので、設立の年に「国際デザインコンペティション」が「集」をテーマに大々的に開催されました。一等賞金は1000万円と当時としても破格で、この効果故か、質的に高い内容の応募が多数集まりました。特に欧米のデザイン系大学の研究室や、当時は発表の場に乏しかった東欧系の若手デザイナーにとっては、魅力的なコンペと受けとめられたようです。このコンペの継続は、世界中のデザイナーを巻き込んでいくことで、日本のデザインが国際的に高く評価される一つの契機となりました。その意味で、答申が示したビジョンと、それに続く通商産業省や大阪府市の投資は、大きな成果をもたらしたといえましょう。

さて、答申はその最後に、「デザイン会館」と「デザイン博物館」という文化的装置を登場させます。
「会館」については、業界団体の会館ではなく、「国の理念が『文化』重視の方向へ進もうとしていることを考えるとフランスのポンピドゥセンターの例にみられる如く、他の文化施設と併せてのデザインセンターの設置というのもひとつの方向かと考えられる」とあります。ポンピドゥセンターは、文化国家フランスの威信をかけて、1977年にパリの旧市街に忽然と登場した総合的な芸術文化施設です。また「博物館」も、「わが国が産み出した貴重な生活文化財(優秀デザイン商品)は、できる限り保存し、できれば国民全体の資産として集中保管管理され国民に提供」する、本格的な研究機能をもった施設がイメージされています。
近年、三宅一生さんが提唱された「国立デザイン博物館」構想について、多くの人々の支持が集まっていますが、残念なから未だにその成果は見えていません。日本のデザイン行政は経済産業省の政策として開始されました。ゆえにリアリティーをもち実践的な成果を上げることができました。しかしその成功故に、デザインは産業マターとして位置づけられ、文化行政としての取り組みを難しくしてしまったようにも思われます。審議会答申は、再三にわたりデザインを文化的側面からも評価し活用すべきと提案していますが、この産業と文化の間にある行政の壁を乗り越えることは、難しかったように思われます。

文責:青木史郎