デザイン振興のあゆみ

産業社会が勃興発展していくなかで、自国産業の国際的な競争力を高めるために、国の政策としてデザインを推進しようとする考え方が欧米諸国で生まれました。日本の場合も同様で、明治6年に開催されたウイーン国際博覧会へ派遣された視察団は、「デザイン」の重要性に気づき、これを振興する政策を提言します。当時は伝統的な手工芸が対象ですが、展示会やコンクールの開催、団体の設立、これを担う人材を育てるための教育機関の設置などが展開されていきます。そして東京美術学校(現東京芸術大学美術学部)などへの専門コースの設置、さらには東京工芸専門学校(現千葉大学工学部)の設立などによって、高度なデザイン思想や方法論を担う人材が育つ土壌も整えられていきます。

昭和3年、仙台に国立の「工藝指導所」が設立されました。ここでは、加飾技術の開発、生活用具のプロトタイプ開発、工芸の近代化を担う人材の育成、展示会などの啓蒙活動、さらにはデザイン専門誌の発行などの研究と振興活動が総合的に展開されていきます。また同時期に、各地の公設指導所や試験所には、デザインの専門家が配置され始め、各産地の産業化に取り組んでいきます。
日本の近代産業がデザインを活用し始めるのは、1950年代後半からであり、またその時期にデザインの行政・振興政策も体系化されます。その成功の背景には、工芸指導所を始めとする先駆的な活動があったのです。

1950

終戦。明るく豊かな社会を築こうと、デザインに世界中が熱い眼差しを向けます。特に日本では、切迫した課題である商品の輸出を促進する手段として、デザインに大きな期待がよせられます。
1951年サンフランシスコ条約締結の年。レーモンド・ローウィが経済界の招きにより来日、たばこピースのデザインなどを通じて、ビジネスとしての活用を紹介します。また同年、アメリカ視察から帰国した松下幸之助が、羽田空港で「これからはデザインの時代」と叫んだという逸話も残されています。
1958年東京タワーが完成した年。通商産業省は通商局にデザイン課を設置。前年度に特許庁により創設された「グッドザイン商品選定制度」を引き継ぎながら、デザイン振興を総合的に展開していきます。同年まとめられた「デザイン奨励審議会」の答申では、「デザイン創造による輸出拡大の可能性に大きな期待」と述べられています。答申を受けて1960年には、JETROにジャパンデザインハウスが開設されました。

1960

日本人はひたすら働きました。高度経済成長は、私達の社会構造を根本的に変えていきます。農村から都市へと人口が移動し、都市郊外には親子4人で暮らす集合住宅が多く建てられます。洗濯機や冷蔵庫、白黒テレビなどの家電製品を中心に、国内マーケットが大きく広がっていきます。
1964年、東京オリンピックに日本中が熱狂します。この開催は国際社会への復帰の象徴でもありました。亀倉雄策がデザインしたエンブレムとポスターは幅広い支持を受け、デザインが果たす役割についての理解を、大きく高めていきました。
1969年大学紛争の年。「産業デザインを通じての輸出増強と文化生活の向上」を目指した総合的デザイン振興機関として、財団法人日本産業デザイン振興会が設立されます。JETRO「ジャパンデザインハウス」の活動を引継ぎ、「グッドデザイン商品選定制度」の委託を受け、活動を開始します。また同年、産業工藝試験所は製品科学研究所と名称変更。工業製品を対象としたデザイン研究にも取り組んでいきます。

1970

公害問題やオイルショックなど、経済社会の様々な歪を乗越えていくことで、生活の質的な充足が図れ、新しいライフスタイルをつくりあげていきます。そして月からみた「地球の出」の写真は、掛け替えのない星に暮らしているとの自覚を、私達に促しました。
1970年、「人類の進歩と調和」をテーマに大阪で開催された日本万国博覧会は、デザインの役割と効果を印象づけ、デザインが様々な領域で活用できることを示していきます。
73年、ICSID 国際インダストリアルデザイン団体協議会の総会とデザイン会議を日本に誘致できたことを契機に、デザインへの理解を深める運動「デザインイヤー」が展開されました。
1975年には、「地方産業デザイン開発推進事業」が始まります。県レベルの振興組織づくりと特定の産地を対象とたパイロットデザイン開発を組みわせることで、地域の企業がデザイン活用できる仕組みを整えていきました。

1980

GNPは世界第二位に、そして「Janan as No.1」と呼ばれるまでに、日本は豊かな社会を築きあげることに成功します。そのゆとりから、私達の生活意識も、物質的な充足から心の豊かさへ、追いつき追い越せではなく国際的な協調へ、さらに大都市からローカルな生活へと、視野が広がっていきます。
1983年ディズニーランド開園の年、財団法人国際デザイン交流協会が大阪に誕生し、高額な賞金を掲げたデザインコンペティションと、それを核とするデザイン展示会等を展開していきます。1984年、「グッドデザイン商品選定制度」は、その対象を全ての工業製品に拡大し、輸出の振興からデザインそのものの振興政策へと転換していきます。
そして1989年は、名古屋でのICSID大会を核に、二回目の「デザインイヤー」運動が全国規模で展開されます、「世界デザイン博覧会」など401件の事業によって、国民生活、産業界、行政におけるデザインへの理解は大きく進みました。

1990

バブル崩壊。出口のみえない不況が続き、「失われた10年」が始まります。
産業企業の活動が停滞する中で、地方自治体はデザインを積極的に活用していきます。1992年、名古屋市は「国際デザインセンター」の事業化に着手。96年の完成と同時期に、市立大学に芸術工学部も新設します。また東北芸術工科大学、岡山県立大学、長岡造形大学、静岡文化芸術大学など、地域自治体が推進するデザイン系大学が次々と開校されていきます。
1993年。輸出検査及びデザイン奨励審議会は、産業社会の転換に対応したデザイン政策のあり方を答申します。これを受け、日本産業デザイン振興会は「人材育成センター」を、国際交流協会は「環太平洋デザイン交流センター」を設立します。
1997年、通商産業省はデザイン関連唯一の法律であった「輸出品デザイン法」を廃止し、「グッドデザイン商品等選定制度」の民営化を図ります。これを受け、日本産業デザイン振興会は、翌年から「グッドデザイン賞」事業を創設し、これを継承します。

2000

インターネットの力が、産業の改革へさらには生活や社会全体へと及び始めます。デザインを商品差別化の道具ではなく、人々を結びつけ、新たな創造を生み出していく思考ととする考えも登場してきました。
2003年、経済産業省は「戦略的デザイン活用研究会」を設置、「競争力強化に向けた40の提言」を発表。これを受け振興会は、デザインコンシャスな経営者とその企業を表彰する「エクセレントデザイン賞」を開始します。また同年振興会は、日本アセアンセンターと共同して、デザインを通じてアセアン各国との連携を強化する「グッドデザイン賞アセアンセレクション」を展開します。
2006年、日本のデザイン振興活動を支えてきた「グッドデザイン賞」は制度発足50周年を迎えました。翌年振興会は東京六本木の「東京ミッドタウン」に移転、日本グラフィックデザイナー協会や九州大学とともに、様々なデザイン活動との連携拠点となる「デザインハブ」を開設します。