公開日:2020.12.01 最終更新日:2021.09.22
戦後最初のビジョン
敗戦直後の1945年11月、「工藝指導所」は、「戦後の日本工藝」と題するパンフレットを発刊しています。「工藝指導所」は、1928年に商工省の研究指導機関として仙台に設立され、産業工芸・デザインの研究と振興活動を展開してきた研究機関ですが、軍部に工芸など贅沢品はけしからんと睨まれ、囮の木製飛行機の生産を指導して生きのびていたと聞ききます。こうした事情ですから、当時の所長であった齋藤信治さんを中心に、暗雲が晴れた、これから復興に邁進するぞ、といった決意が溢れていたのでしょう。このパンフレットがらは、ともかく「明日」が強く感じられます。
「戦後の日本工藝」の大きな特色は、産業工芸の今後のあり方をテーマに、大河内正敏、有馬頼寧、藤山愛一郎、伊原宇三郎、谷川徹三、宮本百合子といった各界の著名人が寄稿していることです。おそらく編集を担当した松田一雄さんを始めとする「工藝指導所」の職員が原稿を集めやインタビューに走り回っていたと想像されますが、この小さなパンフレットの寄稿者は、戦後産まれの筆者(青木)でさえも、ほとんど名前を知っている人物であることに驚きまます。良心的な知識人が社会をリードできる時代が戻ってきた、噤まざるを得なかった言葉が開き始めた、このパンフレットは「その瞬間」が記録されているように思います。戦後の70年余のデザイン行政・振興活動を振り返っても、これほどの「ビッグネーム」を一同に集めた刊行物やイベントはありませんでした。流石に、夫々の発言は極めて示唆に富んでおり「その後」を暗示しています。戦後の再出発にふさわしい「最初のデザインビジョン」と受けとめて良いものと思います。以下「大物達」の見解を聞いてみましょう。
大河内正敏さんのビジョン「科学技術と工藝」(1878-1952)
大河内さんは、物理学工学を背景に、特に理化学研究所の発展に貢献するなと、実業家教育家として大きな影響を与えた方です。このインタビューの直後、日本の原爆製造の責任により「A級戦犯」として巣鴨拘置所に収監されるなど、戦後は波乱の人生を送られることとなります。
大河内さんの論点は「量産」にあります。輸出を前提とした場合、伝統的な工藝には限界がある、それは「世界的なもの」にはなり難い。「日本人の現代的趣味を外国人に知らせる」のではなく、「寧ろ外国趣味が日本人に入り込んでいる来ていると見る方が良いと思う」として、中小の製造業が輸出向けに生みだしてきた製品を念頭に置いて、その可能性を展望していきます。つまり大河内さんは、日本化された西洋の道具の生産に注目しているのです。
「向こうから見本が来て、その見本に合うよなものを安く大量に作っていくということが必要だ、それはインダストリーであるから、向こうの技術を学ぶ必要はない。何を学ぶかといえば、大量生産の科学技術を学ぶのである」。そして洋食器が燕などで生産され成果をあげてきた事例があると指摘します。さらに「これは大都市でやっては駄目である。地方地方に応じてやっていかなければならぬ。・・インダストリーとなれば、此処にはこうゆう原料があって、これで何をつくればよい、燃料はどうするとか色々立地条件を考えて良い所に持って行く」と、地域の特性を生かした「インダストリーの形成」を提言しています。
これは「その後の展開」ではありますが、伝統的工藝を基盤に輸出向け商品を作ろうとする政策は、JETRO等の努力はあったものの、大きな成功を得ることは出来なかったと考えられます。その一方で、大河内さんも紹介している燕三条のように、産地の伝統素材や技法に量産化技術を加えることによって特色見いたしていった産地は、今日でも生き延ています。所謂「地場産業」と呼ばれれる産業群の成立ですが、このような意味で、大河内さんの見解は的確であったといえるかと思います。
有馬頼寧さんのビジョン「農村工藝の振興」(1884-1952)
有馬頼寧さんは、農政家として知られた方で、農林大臣も務められています。日本の競馬の振興にも尽力され「有馬記念」はその功績をたたえる賞です。なお有馬さんは久留米藩主の系譜、また大河内さんも大喜多藩主の系譜、敗戦直後は「殿様」が活躍していた時期でもあるのです。
有馬さんへのインタビューは、論点が拡散しており、ポイントがつかみにくいのですが、「農と工」の併存といった概念を提示しています。戦争中に生産拠点の分散化が必要になった時、ある技師が既成概念にとらわれず、「納屋なら納屋、蚕室なら蚕室」で生産すべし割り切って対応していったことを例に、「工藝というものは、このように進んでいけるものと思う。これからの農村は農業をやる者は工藝もやる。並立して国運を助長して行くといった形になっていくのが、よいのではないか」と述べています。
「戦後の日本工藝」に登場する論者は、工業VS工藝、大都市V地方という対比的な文脈でこの問題を捉えています。有馬さんも同様ではあるのですが、「生活視点からの統合」といった他の論者には希薄な視点がみられます。たとえば、「今まで農民の余閑に作らてきた所謂民藝品は住宅とか農耕のやり方、機構、環境等から総合されて発達して来たものであり、古い歴史がある」。これを便利の為とのみ考えるのも、芸術的な趣味性から論じるのも考えもので、「従来の良さを残しつつ改めていくのがよい」と指摘します。こうした視点も、農業農村を見続けてきた有馬さんならではの見解かと思います。
だた、戦後の日本は、所謂近代化を推進していく中で、農村は農産物の産地として効率化合理化を強いられていくことになります。有馬さんが指摘した「農と工との併存」が改めて課題として登場してきたのは、サステナブルな社会構築が急務となった、ごく最近のことがと思います
藤山愛一郎さんのビジョン「日本工藝の今後の行き方」(1887~1985)
藤山愛一郎さんは、日本製糖などを持つ藤山コンツェルンの後継者、若くして日本商工会議所の会頭となり、公職追放を経て政界に転身、外務大臣などを歴任されています。1951年に来日したアメリカのデザイナー、レーモンド・ローウィの世話役を引き受けたことから、その著作「口紅から機関車まで」を翻訳刊行。また外務大時代に英国で受けた日本製品への激しいクレームが直接的契機となって、通商産業省に「デザイン課」生まれるなど、デザインとはとても縁がある方です。
藤山さんの「日本工藝の今後の行き方」を読むと、この時代から専門的な知見をもっていたことがわかります。論旨も論理的であり、「どうすればよいか」を明確に示していきます。それを要約すると、以下のようになります。
1)日本は資源に乏しいため、高度加工を前提とした高付加価値商品の開拓に活路をみいたすしか選択肢はない。2)敗戦国日本は、大規模工業分野は何らかの規制を受けると想定できるので、中小企業の発展を図るべきである。3)中小企業の発展は、技術開発とその水準の向上が鍵となるが、日本の伝統素材と技術技法をいかした「工芸美術」分野にも大きな可能性がある。4)「美術工芸」は輸出の可能性が高く、その素材や技術を生かしてより良いものにしていく必要がある。5)ただし「生半可な輸出向工芸品はだめで、輸出先に好まれる外観などを研究していく必要がある」。6)同時に、西洋の材料を日本的に迎えていくことも必要であろう。7)また家具など工藝品とまではいかない分野も、工藝的な視点から捉えていくことによって、新しい産業が開けてくるであろう。
「生半可な輸出向け工芸品ではいかぬ」と述べた後に、デザインへの示唆が展開されていきます。「日本人が考えた外國趣味ではなく。外國人が考えた外國趣味のものを日本に移し植えて輸出専心でいく。(中略)良いものは世界中通用するから日常の家庭用具の中でも日本の美術工藝の力を活かそうとすれば、ある程度は相當思ひ切ってデザインは外國の良い所を取り入れなければならないと思ふ」。
一見すると、明治以来の繰返されてきた産業工芸振興論のように思われますが、藤山さんが「デザイン」という言葉を使っていることに注目すべきと思います。おそらく藤山さんは、意匠や図案という言葉では表わせない新しい概念をイメージしていたからこそ、そのまま「デザイン」と使ったのではないでしょうか。当時藤山さんは日本商工会議所の会頭という要職にあるのですが、おそらくデザイン関係者以外で「デザイン」という言葉を使った最初の方ではないかと思います。だからその後に「デザイン」と深い縁を結ぶことになったのでしょう。「デザイン」は日本にはない概念だから「思い切って取り入れる」という発想は、その後。アメリカからのデザイナーの招聘、また日本人デザイナーの留学制度などとなって実現していくこととなります。
宮本百合子さんのビジョン「想像力の源泉について」(1899~1951)
「戦後の日本工藝」は、一番最後の章に、宮本百合子さんの寄稿を掲載しています。小説家として有名な宮本さんは、社会主義者であり、また共産党の宮本顕治さんの婦人でもあったことから再三検挙された経験をもっています。戦後直後にこの人選とは、工藝指導所を中心とする人達が、戦争と敗戦を如何に捉えていたかを暗示するように思います。
宮本さんの一文は、さすがに読み応えがありますので、少し引用しましょう。
「(戦争によって)手荒く取り扱われそれに抗する力を知らなかった人間の心の想像力を取り戻すためには、ただ外部の強圧が取り除かれたというのでは駄目です。ようよう自分の足でともかく歩けるいうことになった民衆一般が、自分の努力で生活運営の方法を組み立て、その収支を自分の勤勉と知識によって責任を持ち、現在日本の全般にみられる混乱と破壊が再編成されていく過程で、始めて真の日本人の生活から生み出された、愛情の籠った、面白い郷土芸術と工藝が生まれるはずです」。郷土芸術と工藝は、今日の言葉でいる「デザイン」と置き換えても良いかと思います。
そして宮本さんの一文は、次のような未来に向けてのメッセージで終わります。「日本の人達はこの大きな世界転換の時期にあたって、国際諸関係の中における日本および日本人というものを現実的に世界水準において掴み直さなければなりません。民族の想像力の発展の一課題として、目前の浅薄な功利主義に足をとられることなく、工芸や美術の発展も考えられるべきであると信じます」。
「国際社会との向き合い方」は、産後の社会を考えていく最も重要な視点の一つです。そもそも「デザイン」は、明治が始まる頃に、外国に商品を輸出するための手段、さらには伝統的な手工芸を、産業をして育成していくために導入されたもので、その意味では「国際社会に追いつく」ための方法であったわけです。この文脈は、戦後のデザイン行政・振興政策へも引き連がれていきますが、問題は宮本さんが指摘するように、それが「世界水準において掴み直された」ものであるかが問われるよにおもいます。
「戦後の日本工藝」について何より特筆すべきことは、このパンフレットが敗戦からわずか3ヶ月後に発行されていることです。「工藝指導所」も空襲で仮住まいであり、また当時の交通通信状況などを勘案すると、取材や編集作業は敗戦直後から開始されていたと推測jされます。ここには、新しい時代に向けて直ちに踏み出さなければならないとする、並々ならぬ決意が感じられます。またここに登場する有識者達も、その熱意を共有しています。そしてこのパンフレットの読者も、同様な熱気をもって読まられたのではないかと思います。暗雲が晴れたような感覚、新しい時代への期待が一気に吹き出した時期とは言えますが、この期待の中で、デザインは明日を描くキーワードとして。直感的に受けとめられたのではないでしょうか。おそらくは「これだ」、「みつけたぞ」という感覚であったかと思います。こうして「新時代」への期待を背負って、「デザイン」は積極的に導入されていきました。
文責:青木史郎