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公開日:2019.01.27  最終更新日:2020.03.14

審議会答申を読む-1 

「輸出デザインの貧困」から「デザイン創造」へ 1958年最初の審議会答申

通商産業省は、1958年5月(昭和33年)、通商局にデザイン課を設置し、統合的なデザイン行政を開始します。そして同年9月には、その政策のあり方を審議するために、政令により「意匠奨励審議会」が設置されました。
「意匠奨励審議会」は、1956年(昭和31年)に特許庁により設置され、そのグッドデザイン専門分科会は「グッドデザイン商品選定制度」の審査を担っていましたが、デザイン課発足に伴い、改めて本省に設置されたものと思われます。なお「政令」とは内閣が制定する命令で、行政機関が制定する命令の中では優先的な効力を有するとされています。ここからも当時の行政が、デザインを重要視していたことがうかがえます。審議会は、発足早々の同年12月に「来年度(1959年度)から必要とする政策」を中心に、答申を行いました。
ここでは、この1958年答申と、その続編的な内容をもつ1961年(昭和36年)「デザイン奨励審議会答申」を読んでいきましょう。

1. 「答申」の概要

1958年の「意匠奨励審議会答申」は、「貿易上のデザインの問題の根本解決は、日本産業自体のデザイン概念の是正」が不可欠であるとして、輸出振興に果たすデザインの役割を簡潔に述べ、「ジャパン・デザイン・ハウス」の設置など、「わが国の今後のデザイン振興策」を具体的に提言しています。
この「デザイン振興政策アーカイブ」では、答申をもとに作成されたと思われる小冊子から再録しています。この小冊子は、「答申」本文と推定される部分に、「英国等のデザイン政策の概要」と、当時アメリカから招聘されていたデザイナーやバイヤーから提出された「勧告抜粋」を加えています。アーカイブでは、この小冊子の編集意図を尊重し、そのままを再録することとしました。
一方、1961年の「デザイン奨励審議会答申」は、その内容からみて、1958年答申の続編と捉えてよいかと思います。
この答申は、デザイン振興が必要とされる理由について、「従来わが国においては、とかくデザインの問題を個人の感覚に依存する芸術的活動のごとく考える傾向があった。しかし、デザインの問題は、企業活動の重要な構成要素として、何よりも経済的な問題である。しかもそれは国民経済の問題である」と解きます。そして、デザインへの理解を推進していくために、「デザイン振興の中心的機関の設立」が求められると提言しています。
ただしアーカイブ収録段階で発見できたのは、審議最終段階で配布されたと想定される資料のコピーのみでした。発表された答申そのものではなく、また他の答申と比べ短いことから、要旨として配布されたものとも推測されますが、これをそのまま再録しています。
なお、この2つの答申をまとめた審議会の会長は加納久朗さん。横浜正金銀行のロンドン支店長などを務められた国際的実業家で、吉田茂さんとの親交が深かったと言われています。1955年からは日本住宅公団初代総裁に就任されており、こうした経歴から、会長に就任されたものと推測されます。

2.「輸出デザインの貧困」からの脱却

1958年の「意匠奨励審議会答申」は、その冒頭から、畳み掛けるように問題の所在に切り込みます。
「わが国の業者の一部に、外国品のデザインを模倣又は写用して外国より苦情を招き、国際的声価を著しく害していることは、今後のわが国輸出貿易の振興に重要な問題を投げかけている。昭和30年1月より昭和33年10月末までに、正式に外国政府を通じて苦情の申入れのあったものは、総件数58件に上り、品目別では雑貨関係31件、軽機械関係18件、繊維関係7件、その他2件となっている」。
こうした海外からの苦情の原因は、日本の労働賃金が安いことにつけ込んだ外国人バイヤーによるところが大きいと指摘しますが、特定の日本の企業が成功すると、他の日本企業がその模倣を海外に売り込むなどのモラルの欠落もあったようです。ただし、日本の製造業者に最初からデザインの能力がない、というわけではない。「日本を訪問したアメリカの或る有名なデザイナーが、日本国内にある優秀なデザインの豊富さに驚きながら、何故輸出される商品のデザインが低俗であるかを不思議がった」ように、基本的な能力は高い。では、その要因はどこにあるのか。答申は、意匠権や商標権などの無体財産に対する意識の低さとともに、デザインについての理解不足を指摘します。
「欧米企業が如何にデザインのために多くの金と人と時間を使っているかは想像以上であり、企業内のデザイン部門はトップマネージに直結し、セールスとエンヂニアリングとデザインは密接に協動されて運営されて居り、デザインの決定は企業の最高責任にされている。(中略)このような海外における企業のデザイン努力と比較してみると、実に著しい立ち遅れが我国にみられるのである」。
つまり「輸出デザイン貧因の根本的な原因は我国産業のデザイン意識の安易さという、産業自体の姿勢の問題に根ざしており、輸出は単なるその現象に過ぎない」。故に当面の課題である輸出振興を超えて、「日本産業自体のデザイン概念の是正」を目指した行政による取り組みが必要であると述べます。

3.デザイン行政のスタンス

答申は、行政サイドにも問題があったことを次のように指摘します、
「またデザイン施策の貧困も指摘されなければならない。従来デザイン行政は明確な理念を欠き局面処理の嫌いがあった。今後は産業デザインの問題の本質を追究し、一貫性総合性をもってデザイン施策の展開を図る必要がある。従来実施されて来た啓蒙施策の拡充をはかるとともに、さらに強力な新施策が切望される」。つまり、輸出振興にデザインが不可欠であるとの認識はあったものの、その活用は対処的局所的であり、デザインを論理的に捉えその活用を体系的に行おうとする視点に欠けていた。そこで通商産業省は、デザイン課を設立したわけですが、本省の仕事は、行政指針の明確化と政策の立案・予算化であり、その実行には、実務を担う機関、いわば手足となってはたらく組織が必要不可欠です。
そこでこの答申は、この実務機関の設立について、日本貿易振興会内に「ジャパン・デザイン・ハウス」を設立すべしと、具体的に提言していきます。むしろこの設立をオーソライズするために、「来年度から必要とされる政策」として、答申が急がれたようにも推察します。
デザイン振興の実務機関のあり方については、英国のCoID (Council of Industrial Design )というすばらしい成功事例がありました。この協議会は、1945年1月、つまり終戦をみこして設立されたもので、アメリカの成功は、同国で生まれ発達したインダストリアルデザインによるところが多いとして、そのデザインを積極的に導入することで、英国の輸出を伸ばしていく政策を体系的に実施していきます。CoIDの活動については、工藝指導所の発行する「工藝ニュース」に50年代始めからそのアニュアルレポートが翻訳掲載されるなど、紹介が進んでいました。またこの答申の小冊子にも「英国等のデザイン政策の概要」として、CoIDの事業である総合展示販売施設「デザインセンター」や、デザインの優れた商品の詳細を記載する「デザインインデックス」などが少し詳しく紹介されています。こうした経緯からも、デザイン行政とデザイン振興については、輸出商品のデザイン模倣という直接的な契機はあるものの、その概念と主要事業のあり方について、かなり以前から研究が進んでいたと考えてよいと思います。

4. ジャパン・デザイン・ハウス

答申が期待するデザイン振興施設とは、 CoID がロンドンの中心街に設置していたデザインセンター、さらにはデンマークの「デン・パーマネント」といった、デザインの優れた商品を展示紹介販売する大きな施設です。答申はその種の設立の必要性について、「第一に、眞に優秀デザインの海外宣伝であり、第二に国内産業に対するデザイン啓蒙である」と述べます。
まずは、国際的な宣伝が足りない。
「最近わが国で海外のデザイナーを招へいして特産品の発掘を実施しているが、これ等来日デザイナーが地方の産地を歴遊してみて、初めて日本のデザインが、海外に氾乱しているものとは全然別個のものであることを知り、その死蔵されている伝統的な美しさを、新しく認識し直している事実は十分考えねばならぬ点である。日本輸出品を目して、低価格な劣悪品とデザイン模倣の商品としか考えていない認識不足は、日本デザインの一貫した宣伝の足らなさを痛感させられる」。
またアメリカにおいて、スカンジナビア・デザインが優位な市場を獲得している要因の一つに、デンマーク・デザインの展示販売センターである「デン・パーマネント」の働きが大きいとも指摘します。
次には、国内的なデザイン啓蒙の役割です。
「国内の輸出産業に対する啓蒙効果を期待させるものであるが、イギリスの CoID は巧みにこれに成功している。すなわち、厳正で権威のある選定制度は、展示品に栄誉と信用と営業宣伝力とを与え、企業のデザイン・マインドの昂揚に具体的な目標を与える」。
さらに答申は、その施設の概要について、具体的な指針を示します。
「権威ある選定委員に依って選定された国内の優秀デザインを常時展示する施設である。ディスプレーは特に考慮が払われなければならない。また同時にイギリスの CoID のようなデザイン・インデックスのような展示品の生産・販売に関する必要なインフォメーション室が付加される」。
この答申に基づき、JETRO(日本貿易振興会)は、1960年3月、当時本部があった東京駅八重洲口の東京観光会館内に、常設展示場と資料室を備えた「ジャパン・デザイン・ハウス」をオープンします。主な事業は、優秀デザイン商品の選定と展示、インフォメーションサービス、機関紙「Japan Design House」の発刊、特定のテーマに基づいた展示会の開催などです。なお、初代館長には千葉大学の小池新二さんが就任しました。

5.「デザイン振興の中心的機関の設立」へ

この具体的指針の最後に、「7. ジャパン・デザイン・ハウスは将来総合デザインセンターへと発展することが期待されるが、差当りジェトロに付置する」との一文があります。やや付け足したかのように思われますが、この答申の審議の段階でも、独立した機関でなければ担えないとの考え方があったのではないかと推測されます。
こうした認識を受けてのことと思われますが、1961年の「デザイン奨励審議会答申」は、「ジャパン・デザイン・ハウス」を継承する総合的なデザイン振興機関の設立を提唱します。
「現在ジェトロのほか繊維、陶磁器、機械、 雑貨について業種別デザイン・センターがあり、また各都道府県、市、民間企業および団体によるデザイン振興事業が行なわれている。(中略)。これら各種機関の実施する事業の効果を拡大するため、これらの機関相互の連絡と協力をはかる場として、かつは、これらの自主的事業活動を助長する機能を担うものとして、さらには、これら機関の分野を超える事業の主体としての強力な中心的機関の設立が必要である」。
この答申からやや時間をおきますが、1969年に「財団法人日本産業デザイン振興会」が設立されます。同振興会は、「ジャパン・デザイン・ハウス」が行ってきた事業の継承、さらには日本商工会議所に事務局が置かれていた「グッドデザイン商品選定制度」の委託を受けることで、「デザイン振興の中心的機関」としての役割を確立していきます。

さて、ここに紹介した2つの答申がなされた昭和30年代は、日本の高度経済成長が始まった時期です。さらには農業を基盤とする社会から産業社会への転換がなされ、私たちの生活も大きく変化していった時代でもありました。デザインについても、主にアメリカからの技術移転も順調に進み、さらには1964年の東京オリンピックという貴重な経験を経ることによって、日本のデザインは瞬くうちに成長し、輸出品の品質とブランド力を向上させるだけでなく、国内市場を開拓し、企業活動を発展させていく原動力の一つとして、さらには新しい生活を築いていく指針としても、大きな役割を果たすに至りました。
デザイン行政の端緒となった模倣問題についても、もやは遠い昔のように聞こえます。しかしこれを「日本らしいデザインとは」と置き換えてみると、答えは容易に見つかりません。
このことについて、1958年の「意匠奨励審議会答申」は、次のような興味深い見識を示しています。
「明治以来の西欧文明の多年にわたる吸収過程が、またデザインの模倣とその低滞の根強い要因であることも指摘される。新製品のデザインは舶来的であることがよいデザインであったのであり、このような他律的なデザイン傾向が長く尾を引いて来た。生活の実用性と切り離された形態だけのデザインが、デザインの自主的創作を誤らせ、やがては西欧に対するコンプレックスとなり、自らのよい伝統を忘れ去らせるに至った。特に輸出商品の場合は俗悪な迎合デザインに堕するか、海外デザインの写用になってしまった」。
これはデザインだけの問題ではなく、日本の近代美術や音楽に共通する傾向であり、また日本の近代化のパラドックスでもあります。
日本は、他律的ではない、自律的なデザインを産みだしえたのか。この一文は時を隔ててはいますが、極めて本質的な問いかけであるように思います。

文責・青木史郎